原爆による身体への被害とあわせ、差別や偏見の大きな苦しみを国の内外に訴え続けた長崎原爆青年乙女の会の小峰秀孝会長が11月、83歳で亡くなりました。

小峰さんは4歳のとき、爆心地から1.5キロの自宅近く(当時の長崎市西郷狩股)で被爆しました。

講話
「あの日、ものすごく暑い日でした」「11時2分、たぶん、光ったんだろうと思います。次の瞬間、ものすごい爆風と轟音でその爆風で嫌というほど畑に叩きつけられた」

外で遊んでいた小峰さんは原爆の熱線で両手、両足、そして腹に大やけどを負いました。

「もし、(写真を)見たくなかったら見なくてもいいです」

「鶏の足のようだ」と差別と偏見にさらされた自分の足の写真を見せながら、若い世代に原爆のおそろしさを訴えてきました。

小峰秀孝さん
「伝えなくちゃ、って思います。伝えなくっちゃって思います。中には『(原爆を)落とされて当然だ』という人もいますから。でも話しているうちに心の中のどこかを揺さぶっているんですよね」

半生をつづった手記や被爆者運動を通して、身体の傷や差別・偏見など、戦後も継続して起きる原爆被害による苦しみを伝えました。

長崎の被爆者運動の源流となった「長崎原爆青年乙女の会」では仲間たちが次々とこの世を去る中、2016年から会長を務めました。

長崎原爆青年乙女の会 小峰秀孝 会長(83)
「核兵器を威嚇し、使用もありうる、との発言では、私みたいに被爆者は本当に身の毛もよだつ思いでございます」

晩年は入退院を繰り返していて、今年6月まで被爆講話を続けましたが、11月24日、食道がんのため長崎市内の病院で息を引き取ったということです。

長崎被災協 横山照子 副会長(83)
「原爆というのがいかにひどいものだったのか彼は示してきたわけですから」「ノーベル賞を機会にね、核兵器廃絶の運動が世界中に広がるように」「亡くなった人たちと一緒になってしていきたい」

すでに家族葬が執り行われていて、長崎被災協は後日、しのぶ会を検討しています。

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