遡ること半世紀以上前の1969年11月4日、3万トンの液化天然ガス(LNG)を積載したタンカーが米アラスカ州から東京ガス根岸LNG基地(横浜市)に到着した。LNG輸入の第1号だ。
今やLNGは日本を支える基幹エネルギーだ。都市ガスのほか、電力分野では発電量の35〜40%強を天然ガスが占める。日本は世界で貿易されるLNGの1〜2割を購入し、中国と並ぶ輸入大国だ。
水素の現状とLNG導入時の環境は似ている。いずれも環境問題が導入の発端になっている点だ。当時、石炭や石油からつくるガスが深刻な大気汚染を引き起こしており、クリーンなエネルギーとして、液化する過程で硫黄分が除去できるLNGが求められていた。
LNGは1カロリー当たりの単価が原油の1.7倍と高い。需要家が付かなければ巨額投資をしても回収できないリスクが多分にある。
そこで東京ガスは東京電力を巻き込んで巨大な買い手となって需要を創出。三菱商事とも手を携えアラスカのLNG権益を取得した。
三菱商事などの商社を中心に日本は権益を次々と開拓。関連産業も勃興し、天然ガスを液化するプラントの設計・建設は日揮などの日本勢が世界トップになり、LNG運搬船は三菱重工業や川崎重工業が2010年代半ばまで席巻した。
川崎重工、水素需要の創出に力
LNG市場拡大の軌跡は水素社会の実現に向けたお手本となるはずだ。「まず大規模に需要を創出したことが大きい」。川崎重工で水素事業を率いる西村元彦専務執行役員はこう話す。「だからこそ(産ガス国から)LNGを長期に買い取るという契約が成立し、規模のメリットで価格が下がったので売買が広がっていった」と解説する。
川崎重工は今、オーストラリアで採れる低品位の石炭「褐炭」から水素をつくって日本に輸入するサプライチェーン(供給網)づくりの先頭に立っている。水素はセ氏マイナス253度で液化して海上輸送するが、川崎重工が専用運搬船や液化プラントなどの開発を担う。西村氏が言う需要がなければ、プロジェクトは砂上の楼閣に終わるとあって、川崎重工自身も率先して下流に種まきする。
代表例がレゾナックの川崎事業所(川崎市)で計画を進める水素発電所だ。川崎事業所は港湾沿いにあるが、この一帯は他にも化学プラントやJFEスチールなどの製鉄所があり、水素を大量に使うと見込まれる需要家がそろう。川崎事業所やその付近に水素発電所と水素の受け入れ基地をつくれば、一大産業圏が形成される。
LNG導入時は事業者を守る仕組みづくりも重要となった。例えば、新たな燃料の供給者に対して既存燃料との価格差を国が補塡する「値差支援」だ。西村氏は「『総括原価方式』のように(設備費と事業運営費という)供給コストに適正利潤を上乗せする制度があれば、水素の供給事業者はリスクを軽減できる」と説く。
総括原価方式とは電力業界で長らく使われた制度で、電力会社が電気料金を設定する際、経営に必要なコストを積み重ねた上に一定の利潤を加えるという方式だ。
電力自由化の流れとは逆行するように見えるが、日本に総括原価方式があったからこそ、電力・ガス会社は割高なLNGへの積極転換を図れたと言える。
水素発電事業を計画する国内発電最大手JERAの担当者は「水素も自由競争を通して収益性を確保できるまでは、公的な枠組みが欠かせない」と指摘する。
LNGから学ぶ3つ目のポイントはデファクトスタンダード(事実上の標準)を握る自助努力だろう。LNGを反面教師として取り組む課題だ。
LNGでは、欧米に関連設備の規格を握られた。例えば、LNG運搬船は欧州勢が先に開発した結果、ノルウェーとフランスの2社がタンク内部の防熱や形状に関する技術などのライセンスを独占。日本はライセンス料を払わざるを得ないほか、技術改良も自由度の差こそあれ制限されている。
幸い、日本は水素分野で世界最多の特許出願件数を誇り、技術は先行している。今のうちに規格やルールづくりで主導権を握れば、LNGと同じ轍(てつ)を踏まなくて済むはずだ。
LNG設備は材料や溶接方法、構造などが規格で縛られ、新技術を編み出しても使えないという弊害を抱えていた。これに対し、川崎重工の西村氏は「これからは性能を規格の物差しにすべきだ」と唱える。
例えば、水素タンクは70メガパスカルの耐圧性という「性能」が保証されていれば規格を満たしているという考え方だ。そうすれば材料や構造設計といった技術を自由に使いコスト低減や性能向上を図れる。ブラックボックス化もできて他社にまねされにくい。
川崎重工は国際海事機関(IMO)などに人材を送り込み、液化水素運搬船の規格づくりへの関わりを増やしている。水素バリューチェーン推進協議会(東京・千代田)も国際標準化機構(ISO)などに職員を派遣し、ルールづくりに関与。LNGの敵(かたき)を水素で討つべく動く。
もっともLNGの教訓だけでは水素社会は日の目をみない。水素は再生エネと密接な関係があり、既に再生エネ大国となっている欧州でビジネスを鍛え上げるという戦い方も敗戦を避けるカギを握る。
例えば日立造船。再生エネは天候によって出力が変わるが、同社の水電気分解装置は独自技術でその変動に瞬時に対応し、水素を安定生産できる。欧州で力を発揮しやすい製品として今後売り込む。
また、水素と二酸化炭素(CO2)を合成して都市ガスの主成分であるメタンをつくる「メタネーション」装置もあり、こちらはスイス子会社が関連のプラント建設や技術供与で実績を積んでいる。日立造船の鎌屋樹二常務取締役は「アグレッシブな政策を打つ欧州の方が商売にしやすいのは確か」と話す。
三菱重工業も米ユタ州で再生エネ由来の「グリーン水素」を製造・貯留する事業に出資。ユタ州の電力事業者に対し、既存の石炭火力発電所の置き換えで、グリーン水素を燃料とする新型の水素ガスタービンの導入も進めている。加口仁取締役副社長執行役員は「米国は再生エネが豊富で(脱炭素を支援する)インフレ抑制法(IRA)も整っている。水素事業がしやすい」と指摘し、米国で先行して力を蓄える道筋を描く。
海外で実績を積む傍ら、国内ではLNGの教訓3カ条を生かしながら脱炭素という時流に即したルールや技術を官民でつくる。うまく立ち回れば、欧米や中韓との戦いに勝ち目が出てくるはずだ。
水素に詳しい識者に聞く
水素への支援、3兆円で足りるのか一般社団法人水素バリューチェーン推進協議会の福島洋事務局長
水素ビジネスは先行きを予見できないと動き出せない。欧州ではプロジェクトごとに規模や採算性などがパッケージになって見えやすくなっており、日本の商社や水電気分解装置メーカーも参入しやすい。欧州は「とりあえずやってみよう」というマインドで進めており、市場整備は日本より得意だ。
日本はカーボンプライシングの導入が決まったが、ガソリンや都市ガスの単位量当たりの価格は具体的に決まっていない。政府のグリーントランスフォーメーション(GX)経済移行債も20兆円のうち3兆円が水素に充てられるが、それで足りるのかという問題もある。
再生可能エネルギーでいえば日本は太陽光発電で先行したが、ドイツは国家戦略としてFIT(固定価格買い取り制度)を導入した。近年では中国に押されている。水素はそうならないよう戦略性を持って産業育成しなければならない。日本は2023年から国の具体的な支援策が出始めているので、潮目は間違いなく変わっている。(談) 国内法の規制緩和が世界標準奪取に
ベイカレント・コンサルティングの則武譲二常務執行役員
水素の輸送手段としては、水素をトルエンと結合した「メチルシクロヘキサン(MCH)」として運ぶのが最も有望だと考えている。政府は3兆円の水素支援枠を用意しているが、MCHや液化水素など各技術に対する配分や分配条件が分かりくい印象を受ける。
国際海事機関(IMO)はMCH運搬船の積載量を厳しく規制しており、1隻当たりのコストが高くなる。海運などを巻き込んで規制緩和を訴える必要がある。水素サプライチェーン(供給網)全体を管理するリーダーも必要だ。
日本の水素を巡る保安基準は海外と比べてかなり厳しい。日本はゼロリスクを目指すが、そうなるとコストが高くなりやすい。日本企業は保安法を回避するため、例えば電解槽の水素生成時の圧力を1メガパスカルに設計している。だが、欧米では3メガパスカルが一般的。グローバルスタンダードを握るには、リスクの考え方を世界に受け入れられるものにする必要がある。国内法の規制緩和が欠かせない。(談) 水素権益の政府間交渉なしでは負ける
東京工業大学の柏木孝夫名誉教授
日本は世界に先駆けて「水素基本戦略」を策定したが、ドイツなども国家戦略をつくり、すごい勢いで投資をしている。アフリカ各国で再生可能エネルギー由来の「グリーン水素」を製造し、輸入しようとするなど野心的だ。日本も資源外交を積極的にやらないと劣後する。政府間交渉で水素権益を確保しやすい環境をつくらなければ、民間投資は盛り上がらない。
日本は水電気分解装置など要所で強い技術を持つ。「技術で勝ってビジネスで負ける」ということがないように、今後、電解装置から液化やアンモニアといった運搬技術、輸送までをパッケージにして大きな脱炭素市場となる東南アジアに売り込めるようにしたい。
2024年の成立を目指す「水素社会推進法」では水素関連設備の許認可を経済産業相に一本化する。従来は都道府県単位の認可だったが、スピードはかなり上がる。また水素を高圧ガス保安法の特例措置の対象にすれば民間は事業をしやすくなるだろう。(談)
(日本経済新聞社 上阪欣史)
[日経ビジネス電子版 2024年2月21日の記事を再構成]
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