30日は石川県輪島市の塗師屋、塩安眞一さんが「輪島講」と呼ばれる輪島塗を手軽に購入するための地域の人たちの集まりを訪れました。

塩安さんは毎年3月、八頭町の「輪島講」を訪れていましたが能登半島地震で工房が入る店舗の棚が倒れて商品の輪島塗が傷つくなど大きな被害を受けました。

しかし店舗の復旧が進んだことなどから能登半島地震からおよそ半年がたった30日、八頭町を訪れることができました。

塩安さんはおわんや飾り箱などおよそ50点を持ち込み、20人ほどの参加者の前に並べました。

参加した人たちは作品を1つ1つ手に取り、色や柄の特徴について塩安さんから説明を受けながら品定めをしていました。

お皿を注文した参加者の男性は「震災があったなかで、ありがたい気持ちでいっぱいです。このつながりをずっと続けていきたい」と話していました。

塗師屋の塩安眞一さんは、「笑顔で鳥取の人たちに迎えてもらい本当にうれしかったです。輪島は復興の入り口に立った状態で、職人が戻ってくるためにも注文を受けることが大切だ。なかなか簡単には元どおりにならないが、少しずつ注文をいただきながら、復興していきたい」と話していました。

塗師屋 塩安さん ”能登半島地震は今まで経験のない試練”

輪島市で輪島塗の製造から販売を手がける塩安眞一さんの「塗師屋」は祖父の代から100年以上に渡り、毎年、鳥取県で開かれる輪島講を訪れています。

しかし、元日の能登半島地震で塩安さんの工房が入る店舗は、建物にひびが入り、床が傾くなどしたため修繕が必要となったほか棚が倒れて商品の輪島塗が傷つくなど大きな被害を受けました。

塩安さんの工房で働いていた8人の職人は全員輪島市の外に避難をしたため1か月余り輪島塗の制作ができない状況が続きました。

地震の直後、塩安さんは再建は難しいと感じたといいます。

こうした中、輪島講でつながった鳥取県の人たちから塩安さんのもとに励ましの電話や手紙だけでなく支援金も寄せられたということです。

塩安さんは当時を振り返り、「本当にありがたかったです。前に進まないといけないと思うきっかけになりました」と話しています。

鳥取の人たちからの激励もあって工房の修復を進めて2月末には、地震で壊れた輪島塗の修理や新しい作品の制作を始めました。

さらに、県外で開かれたイベントで被災を免れた作品を販売するなど輪島塗の復興を目指しています。

塩安さんは「能登半島地震は今まで経験したことがない試練でした。今は『輪島塗を残さなくちゃ』、『復興させないといけない』という気持ちが徐々に大きくなっている」とと話しています。

輪島講とは

「輪島講」とは同じ地域に住む友人や親戚どうしが協力して高額な輪島塗を手軽に購入するための仕組みです。

輪島講に参加する人たちは毎年、一定のお金を出し合い、順番で輪島塗を購入します。

そして最終的には参加した人たち全員が輪島塗を手に入れることができます。

参加した人たちは輪島塗を購入するために一度に支払う金額を抑えることができるメリットがあります。

輪島塗の製造から販売を手がける、「塗師屋」にとっては毎年、購入してくれる固定客を確保できるメリットがあり、輪島講の参加者には通常よりも最大で半額の特別価格で販売しています。

輪島講は少なくとも江戸時代後期には始まっていたとされ、輪島塗が全国に普及する大きな要因となりました。

しかし戦後はデパートなどでの販売が主流になったことなどに伴い、各地にあった輪島講は次々に消滅しました。

輪島漆器商工業協同組合によると輪島講が現在も残っているのは鳥取県だけだということです。

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