写真の「センテナリーダイヤモンド」は世界最大級の無傷のダイヤモンドで、原石の重さは599カラットもあった。デ・ビアスが所有する南アフリカのプレミア鉱山(現在の名称はカリナン鉱山)で1986年に発見された。センテナリーとは百周年の意で、デ・ビアス社100周年を記念して名づけられたもの。(PHOTOGRAPH BY PATRICK LANDMANN, GETTY IMAGES)

1960年、グラディス・バブソン・ハンナフォードは、米フロリダ州立大学で課外授業を行った。「ダイヤモンド・レディー」の名で知られる彼女は、ダイヤモンドの「専門家」としてダイヤモンドに関する「教育的」な講演を年間数百回も行っていたが、実は広告代理店に雇われた人物だった。彼女に与えられた使命は、野心的かつシンプルなもの。それは「米国の女性にダイヤモンドを欲しがらせること」だった。

実は、ダイヤモンドはたいして希少な宝石ではない。当時、その価格は広告代理店の上得意である世界的なダイヤモンド・コングロマリット(複合企業)の「デ・ビアス」によって決められていた。けれどもハンナフォードは講演で、ダイヤモンドは貴重な宝石で、感情的にも歴史的にも重要な意味を持つと説いた。

彼女は学生に「永遠に品質が変わらないダイヤモンドは、永遠の愛と結びついているのです」と語りかけた。それを聞いた女子学生たちは、未来の婚約者にはダイヤモンドの指輪を贈らせようと心に決めた。

ハンナフォードの講義は、ダイヤモンドの婚約指輪を普及させるために数十年にわたって続けられたキャンペーンの1つにすぎない。今日、ダイヤの指輪は婚約に必須の贈り物となっている。しかし、デ・ビアスがこのありふれた宝石をロマンスの希少な象徴として宣伝しはじめた時代には、婚約者にダイヤの指輪を贈る伝統など存在していなかった。

265.82カラットの原石からカットされ、研磨された4個のダイヤモンドを手にする宝石商。ダイヤモンドのカッティングと研磨の技術はルネサンス期に発達し、職人たちは新しい道具を使って原石を加工し、美しい輝きを持たせた。(PHOTOGRAPH BY CARY WOLINSKY, NAT GEO IMAGE COLLECTION)

真の富と贅沢の象徴に

19世紀まで、ダイヤモンドの主な産地はインド亜大陸と南米だった。ダイヤモンドは古代世界では古くから知られていたが、西ヨーロッパで注目されるようになったのは13世紀以降のことだ。その後、ルネサンス期に職人たちが新しい道具を使ってダイヤモンドの原石をカットして研磨し、きらびやかな輝きを与えて、見事なジュエリーを製作するようになった。

カッティングを施して研磨したダイヤモンドは息をのむほど美しかった。その上、当時は希少だったため、それを手にすることのできる一握りの人々にとって、富と贅沢の象徴となった。

1477年、後に神聖ローマ皇帝となるマクシミリアン1世が婚約者のマリー・ド・ブルゴーニュに贈ったダイヤの指輪もそうしたものの1つだ。これがダイヤの婚約指輪の起源だとする説があるが、王族の間では当時からすでにダイヤの婚約指輪を贈ることが流行していたとする説もある。

しかし、ダイヤの婚約指輪を贈る習慣は一般の人々にまでは広がらなかった。人々は結婚が決まると、鉄の指輪から衣服や家畜まで、さまざまなものを交換していた。

一転して失われた希少価値

1860年代、南アフリカのオランダ人入植者ヨハネスとディーデリックのデ・ビア兄弟の農場でダイヤモンドが発見された。兄弟はその後、自分たちの所有地にあった鉱山を英国の会社に売却した。

兄弟の名を冠したデ・ビアス鉱山は、英国の企業家で悪名高い政治家でもあったセシル・ローズに引き継がれた。ローズは近隣で新たに発見された鉱山も買収し、最終的にこの地域のダイヤモンド産業全体を統合した。コングロマリット「デ・ビアス」の誕生だ。

しかし、南アフリカの鉱山の発見はダイヤモンド産業に大きな試練をもたらした。ダイヤモンドの世界的な供給量は桁違いに増え、デ・ビアスの比率はその90パーセントを超えるに至ったが、供給過剰になったダイヤモンドの金銭的価値と高級品としての評判を維持するという微妙な課題も抱えることになったのだ。

1900年頃、キンバリーにあるデ・ビアス社のダイヤモンド鉱山で働く鉱夫たち。(PHOTOGRAPH BY FPG, GETTY IMAGES)

20世紀初頭、世界大戦と世界恐慌によってヨーロッパでのダイヤモンドの需要が激減すると、デ・ビアスと当時のオーナーだったアーネスト・オッペンハイマーは、未開拓の市場として米国に狙いを定めた。

彼らは米国人に「ダイヤモンドは永遠の愛を象徴するものであり、高い金額を支払う価値がある必要不可欠な贅沢品だ」と信じ込ませるためのプロジェクトに着手した。そこで活躍したのが、フィラデルフィアの広告代理店N.W.エイヤー・アンド・サンだった。

キャンペーンには英国の王族も一役

広告代理店のエイヤーは1940年代から、ダイヤモンドのイメージと、その希少さと象徴性に関する物語を米国の消費者に吹き込んだ。

雑誌の広告では、婚約したセレブとダイヤの婚約指輪が紹介された。デ・ビアスはハリウッドスターにダイヤモンドのジュエリーを貸し出して身につけさせた。

また、ダイヤモンド・レディーのような人々を女性クラブや社交グループ、さらには高校にまで派遣してダイヤモンドの魅力を強調させ、ダイヤモンドと結婚を結びつけて考えるように米国人の潜在意識に働きかけた。

キャンペーンには王族も一役買った。1947年には英国のエリザベス女王が南アフリカのデ・ビアスの鉱山を訪れ、南アフリカ政府からは燦然と輝くダイヤモンドのネックレス、デ・ビアスからは6カラットのダイヤモンドを贈られた。

エリザベス女王が婚約者のフィリップ殿下から贈られた婚約指輪は、フィリップ殿下自身がデザインした。そして、この指輪に使われたダイヤモンドはフィリップ殿下の母親のティアラにあしらわれていたもので、さらにこのティアラはロシア皇帝ニコライ2世からの贈り物だった。

キンバリーにあるデ・ビアス社のダイヤモンド鉱山で原石を選別する労働者たち。(PHOTOGRAPH BY ARCHIVE PHOTOS, GETTY IMAGES)

この象徴的な(そして広く知られた)婚約指輪は、人々のダイヤモンドへの渇望を煽り、ダイヤの婚約指輪を贈る行為は男性の側にも大きな意味があることを消費者に知らしめた。デ・ビアスは、女性の指に輝くダイヤモンドは、それを贈った男性の経済的成功や社会的地位の象徴であるとすることで、男性の心にも強く訴えかけたのだ。

マーケティング・キャンペーンは至るところで展開され、1948年に発表された「A Diamond is Forever(ダイヤモンドは永遠の輝き)」というキャッチコピーは、今日でもデ・ビアスとダイヤモンド産業全体に使われており、史上最も成功したキャッチコピーとして知られる。ちなみに、このキャッチコピーを考案したエイヤーのコピーライターであるメアリー・フランシス・ゲレティーは、生涯一度も結婚しなかった。

「永遠の愛」と「ビジネスの屋台骨」

彼女のキャッチコピーは簡潔にして要を得ているだけでなく、「婚約指輪は思い出の品なので転売すべきではない」という思想も伝えており、これによって、複数回結婚する人にはそのたびにダイヤの婚約指輪を新たに購入することを奨励したと分析されている。

ダイヤモンドを「心理的必需品」に変え、収入や経済的プレッシャーやコストにかかわらずダイヤの指輪を婚約の必須アイテムにするというデ・ビアスの野心的な目標は、見事に達成された。世界ダイヤモンド評議会によると、世界の宝飾品販売額は年間720億ドル(約11兆円)を超え、米国は世界最大のダイヤモンド市場になっている。一方、新たな鉱山の発見、ライバル企業の台頭、合成ダイヤモンドの出現により、デ・ビアスはもはや世界のダイヤモンドの大半を支配しているわけではない。

インスタグラムをざっと見たかぎりでは、ダイヤの婚約指輪が近いうちに流行遅れになる気配はなさそうだ。今やダイヤモンド販売の主要な原動力はソーシャルメディアだと考えられており、新たに婚約したカップルの大半がソーシャルメディアで婚約を発表している。

コロナ禍以降、婚約指輪の売り上げが減少していると報告されているが、ダイヤモンド小売業者は、売り上げは好転するだろうと考えている。1960年にダイヤモンド・レディーが言ったように、「ダイヤモンドは宝石商のビジネスの屋台骨」であり、すべては巧みなマーケティングのおかげなのだ。

文=Erin Blakemore/訳=三枝小夜子(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2024年4月9日公開)

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