予期できなかったエンゼルス入団
2017年11月末。渡米した大谷を追いかけるように、急きょ私の米国出張が決まった。目的はもちろん大谷の動向取材。
大谷がメディカルチェックに訪れることを警戒し、トミー・ジョン手術の総本山として知られるロサンゼルス市内の「カーラン・ジョーブ・クリニック」には、既に在米の日本記者が大挙して押し寄せていた。
そのほかにも大手エージェント「CAA(クリエーティブ・アーティスツ・エージェンシー)」の事務所前にも大量の報道陣が出待ち。私は米国駐在の通信員と複数人体制で臨み、マークの薄かったドジャースタジアム、エンゼルスタジアムや近隣の大学のグラウンドにも足を運び、大谷の足取りを追った。
取材と言えば聞こえはいいが、広大な南カリフォルニアで大谷を見つけなければならないという雲を掴むような難しいミッションだった。
そんな生活が約1週間続き、絶望に打ちひしがれている12月8日、エンゼルスが大谷の入団を発表。入団発表後に「CAA」の事務所前に入る大谷の写真を共同通信社が撮影。スポニチは私含め当時は「CAA」の事務所前に不在だったため、翌日の紙面は共同通信員社撮影の写真が掲載された。
大谷とニアミスだったことも発覚した。
私は、発表前日の7日エンゼルスタジアムの駐車場で大谷の出入りを待っていた。後日、陽が落ちた頃に大谷がエンゼルスタジアムを訪れたという話を耳にした。
私はちょうどそのタイミングで「もう暗くなったし来ないだろう」と、球場を離れていた。なんということだろうか。大谷がエンゼルスタジアムを視察に訪れたことを確認できたとしても、記事として報じられたかは分からないが、悔しい出来事となった。
トラウト選手の結婚式があります
12月9日。エンゼルスの入団会見。
気温31度。太陽が照りつけ、青空が広がった。ファン公開型の屋外入団会見。会見に先立ち着席した当時のビリー・エプラーGMやマイク・ソーシア監督の名前が呼ばれる度に、1000人を超えるファンから地鳴りのような大歓声が沸き起こった。
大音量のアップテンポの曲も鳴り響くなど、震えるほど格好いい演出だった。
そんな中、真っ赤なユニホームに袖を通した大谷は、カリフォルニアの空気を目いっぱい吸い込み、第一声を発した。
「ハイ、マイネーム イズ ショーヘイ オオタニ」。英語で自己紹介した後、こう誓った。「これからエンゼルスの一員としてファンの皆さまとともに優勝を目指したい」。
鳴り止まない大谷コール。さらに「今日、トラウト選手の結婚式がありますので結婚おめでとうございます」と、エ軍が誇るスターにも祝福の言葉を贈り、ファンのハートをわしづかみにした。
7球団に絞った面談でエンゼルスを選んだ。「本当に縁みたいなものを感じた」。面談の席ではトラウトとテレビ電話で話す機会が設けられ、共闘を呼びかけられた。
26歳にしてMVPを2度獲得の現役最強メジャーリーガー。同じ「世界一の選手」を目指す大谷の心は突き動かされた。
地域性やリーグの違いは決め手ではなく「本当に感覚的なもの」とも言った。二刀流のバックアップはもちろん、トラウトを代表とするエ軍の家族的な雰囲気は、どこか日本ハムに近いものがあったのか。
背番号は17。日本ハムで11を背負った大谷は「本当は(トラウトの)27にしようかなという気持ちはあったけど、埋まっていたので17番にしました」と再び"トラウトいじり"で爆笑を誘ったが、こうも言った。「新たな気持ちでここで頑張っていくことを決めた時に、17にしようかと思った」。
17は花巻東の出世番号に当たり、過去に菊池、そして大谷も背負った。メジャーを夢見た初心に帰る。実直な大谷らしい選択だった。
大谷は会見後、球場コンコースで日本メディア、米メディア、現地テレビ、ラジオ局の取材に対応した。
通常、日本メディアは日本メディア用の取材時間しか話を聞くことができず、そのほかはその場から離れるのが"暗黙のルール"だったが、米国での取材が初めてだった私含め、他の日本人記者は、すべてのインタビュー現場を大谷のそばで聞いた。
当時の日本メディアに対応する大谷の写真はエンゼルスタジアムの会見室に飾られ、私も後ろ姿ではあるが、大きく映っていることが秘かに自慢だ。
なぜエンゼルスだったのか?
会見後、ホテルに戻って原稿を書いていると、会社から「大谷が帰る空港をケアするように」との指示が飛んだ。
当然の指示だが、私の処理能力の許容量を超えていた。iPhoneのレコーダーアプリ「ボイスメモ」(以下、レコーダー)の音声の書き起こしもそこそこに、ホテルからレンタカーで約30分かけて空港へ。空港のベンチで大谷が来るか警戒しながら、レコーダーの音声を書き起こし、原稿を書くという、これまでにない過酷な状況だった。
結局、大谷は空港に現れず、入団記者会見から一夜明けた10日。午後10時前のロサンゼルス国際空港に姿を見せた。黒シャツ、淡いブルーのジャケット姿。一般客とは別に用意された通用口から入り、帰国の途に就いた。
あまりに一瞬の出来事だったため、私物のミラーレス一眼カメラでは大谷の横顔しか撮影できず、iPhoneで撮ればよかったと深く後悔した。ともあれ無事に、帰国日未定で始まった米国出張が終了した。
それにしても、なぜエンゼルスなのか。私が把握している限り、スタンドに球団スカウトを見かけたことはなく、そもそもレンジャーズのように駐日スカウトも常駐していない。
ドジャースのように高校時代から熱心にスカウト活動を続けていたわけでもない。大谷は理由について「縁」や「感覚的なもの」という言葉で表現したが、今も当時も100%腑に落ちてはいない。
12月25日。札幌ドームで「惜別会見」が開催された。栗山監督にラストボールを投げ込むセレモニーでは、サプライズでエンゼルスのユニホームを着用。無料開放された会場に集まったファンは約1万3000人。最後はスタンドからの手拍子が鳴り響き、自らの登場曲の中で退場した。
「(普段は)あんまりウルっとこないけど……。(ナインからのメッセージをまとめた)ビデオを含めて良かった」。目頭は熱くなったがこらえた。「野球だけに没頭できた5年間だった」。
大谷は人をイジるのがうまい
大谷らしく、最後まで笑顔でファンに別れを告げた。
大谷の天真らんまんな人柄は、米国でもきっと愛される。大谷は人をイジるのがうまい。2015年シーズン中の鎌ケ谷での練習日。大谷がニヤニヤしながら私に近づきこうつぶやいた。「有原さんが"最後にひとつだけ"と言ってから、たくさん質問するのはやめてほしいと言っていましたよ」。
『大谷翔平を追いかけて 番記者10年魂のノート』(ワニブックス)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします笑いながら練習に戻る大谷にあっけにとられた。この2017年もそうだった。
ある日の西武戦後。メットライフドーム(現ベルーナドーム)の長い階段を上りながら取材していると、大谷の右足首と接触。「あー、痛い。今ので痛めた。あー、痛い」と大声。かなりオーバーなリアクションだが、開幕前に痛めた箇所だけに笑えず平謝り。それを見て大谷はいたずらっぽく笑った。
野球だけでなくこのキャラクターも、もっと伝えていきたいと感じた。
この12月に私は北海道総局から東京本社スポーツ部への再異動を拝命。日本ハム担当からMLB担当になることが正式に決まった。当時のMLB担当は、先輩記者のキャップと私の2人体制。大雪が降りしきる札幌を後にして、東京都内を拠点に新たな生活が始まった。
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