2023年8月、スウェーデンのボルボ・カー日本法人、ボルボ・カー・ジャパン(東京・港)初の女性社長となった不動奈緒美さん。「世の中に偶然はない。全ては必然」と縁を信じ、IT、生命保険、自動車と未知の業界に飛び込んできた。果敢な挑戦は米国留学から始まった。
ふどう・なおみ 北海道生まれ。1991年米メリービル大を卒業後、ボストンのIT(情報技術)企業に入社。帰国後はアクサ生命など保険会社を経て、2021年にボルボ・カー・ジャパン入社。23年8月から現職。自動車業界でのキャリアはまだ3年だが、「誰よりも働き、誰よりも勉強する」という持ち前のひたむきな姿勢で挑んでいる。未知への挑戦、原点は米国留学
もともと自動車と縁のある人生ではなかった。自動車業界でのキャリアはボルボ・カー・ジャパンに入社してからのわずか3年。自動車業界が脱炭素や自動化など「100年に一度の大変革期」にあるという点にワクワクして、初めての業界に足を踏み入れた。
昔から未知数なものに関心をひかれた。「答え」が明確に定められた国語は苦手。「もしかしたら何か見つかるかも」と挑む理科の実験は大好きだった。そんな「未知への挑戦」を楽しむようになったのは学生時代からだ。
自分の知らない世界を見てみたい、海外に行ってみたい――。楽器演奏を楽しむ父の影響で、幼いころから洋楽に親しんだ。高校時代に米国留学した友人が流ちょうに話す英語は、とりわけ米国への憧れを膨らませた。
念願の米国留学を果たしたのは大学生の頃。通っていた日本の大学の姉妹校であるミズーリ州のメリービル大学に通い始めた。当時は1ドル200円超の歴史的な円安局面。スカラシップ(奨学金)をもらっても現地での生活は厳しく、空き時間をアルバイトに充て、学生寮を諦めて比較的安価なホームステイで過ごした。
留学先で先端デジタル学び、米IT企業に9年勤める
留学時の専攻は建築インテリアデザインだったが、興味を引かれたのはデザインに使う最新のデジタル技術。米IBMが学校の近くにあり、授業のなかでコンピューターに触れる機会は多かった。当時は珍しかった最先端のテクノロジーを目の当たりにし、「映画で見た世界みたい。本当にこんな時代が来たんだ」と夢中で勉強した。
大学卒業時、学生ビザのまま1年間はインターンシップができることを知り米国に残った。その後はCAD(コンピューターによる設計)に関する知見を生かし、ボストンのソフトウエア会社に就職が決まる。IT大手のIBMや米サン・マイクロシステムズ向けにソフトウエア開発を手掛ける会社で、ちょうど日本語を扱えるスタッフを探していた。米国での就労ビザもおり、とんとん拍子で正社員に登用されて約9年働いた。
米国では「テクノロジーの最先端を過ごした」。職場のビルには米マイクロソフトが入居し、創設者のビル・ゲイツ氏をエレベーターで見かけた。目まぐるしく変化する業界に身を置くことがモチベーションとなり、「ここにずっと住んでいたい」との思いも強かった。だが、ビザの期限が迫っていたことや日本語に自信がなくなってきたことから32歳で帰国を決める。日本で待っていたのは"逆カルチャーギャップ"だった。
日本で痛感したデジタル化の遅れ
「24時間使えるATMがない?」。日本のテクノロジーの遅れにショックを受けた。米国ではコンビニエンスストアに24時間使えるATMがあったが、当時の日本でこうしたサービスはまだ珍しく、手持ちの現金が足りずに借りたこともあった。
帰国後は都内のソフトウエア会社やコンサルティング会社を経て、2010年にアクサ生命保険に入社する。取り組んだのは業務へのデジタル技術の導入だ。得意分野だったが当時の保険業界はデジタル化の過渡期。周囲の理解も追いついていなかった。営業現場にタブレット端末を取り入れてはと提案すると「何を考えているんだ。保険は紙だよ」と突っぱねられた。
「一方的な押し付けに対する答えはノー。相手が見ている世界を理解しなければ、受け入れてもらえない」。日本人は新しいものを取り入れることに慎重だ。自ら足を運んで各職場の話を聞き、現場が見ている世界を理解することを怠らないよう気を配った。
保険業界でDXなど推進、実績買われ自動車業界へ
その後に転職したマニュライフ生命保険ではデジタルトランスフォーメーション(DX)分野に携わり、執行役員まで務めた。一貫してデジタル分野を歩んできた不動さんに自動車業界からオファーが舞い込んだのは21年の冬。解約せずに数年放置していた転職エージェントから突然メールが届いた。
送り主が見慣れない外国人名だったこともあり、好奇心をそそられて面談することに。現れたのは当時のボルボ・カー・ジャパン社長。英語やデジタル分野に精通したバックグラウンドなどを高く評価された。触って体感できる「モノ」を売る仕事への憧れ、積み上げてきた経験を試してみたいとの野心も相まって入社を決めた。
ここでも未知への挑戦を恐れず、楽しむ気持ちが先に立った。表紙(右面)に書いた「勇往邁進(まいしん)」という言葉には、目的に向かってためらわずに突き進む姿勢が強くにじむ。
オンライン販売、他社に先駆けて導入
入社後は自動車業界の「常識」に挑む。いまだに対面営業が中心の自動車販売に対し、国内ではまだ珍しい自動車のオンライン販売を、他社に先駆けて取り入れた。デジタル技術を使った顧客体験の向上も推進する。一方で「デジタル技術は目的ではなく、方法にすぎない」と言う。大切なのは現場に合った最適解を探ることだ。
社長に就任してからは、職場の改革にも着手。まずタイトル(役職)廃止に踏みきった。「重要なのは役職ではなく、社員一人ひとりが自分の役割を果たし、目的を達成すること」。オフィスはフリーアドレス席に変え、スーツ姿が標準だった服装のルールも緩めた。働きやすさを重視し、職場の風通しをよくするのが狙いだ。
自身もフラットな目線で社員の個性を尊重する。「どうしてそう思うの? どうしてこれをやっているの?」。部下とじっくり対話していけば、個人の独自性や強みを引き出せる。
そう考えるのは自身も「努力家タイプ」だからだ。誰よりも長く働き、誰よりも勉強する。そんな不断の努力で「業界の誰よりも知っている」を徹底してきた。今回の「未知」がどこへつながるのか、自分でも楽しみにしている。
嫌々続けたゴルフが結ぶ縁
「ゴルフは私のコミュニケーションツール」と話す。キャリアは長く、始めたのは小学4年生のころ。ゴルフに凝っていた自営業の父の指導で学校から帰宅すると塾かゴルフの練習。素振りは1日200回に及び、1年近く球を打たせてもらえなかった。スパルタ指導に嫌気がさし、祖母の家に逃げて押し入れに隠れたこともあったという。
嫌々続けたゴルフだが、米国時代に身を助けてくれた。当時は時間ができると、飛行機に乗って単身フロリダ州に飛び、釣りやゴルフを楽しんだ。一人でゴルフ場を訪れると高齢の男女とペアリングされることも多かったが、幼い頃にたたき込んだ父直伝のフォームを褒められた。流れのままに夕食を共にし、ボストンに帰ってから感謝の手紙を出す間柄になるなど、人の縁が広がった。
日本では今でも社内、社外を問わずに、よくゴルフに行く。「ゴルフは人と人との付き合いの場。社会的地位に関係なく、ルールに基づいて楽しめる」のが魅力だと言う。
ゴルフを教えてくれた父は、孫娘にもゴルフを伝授した。最近の休日は娘と一緒にゴルフに出かけることも多い(上の写真)。心のままに気持ちよく楽しめるゴルフとは、一生のつきあいとなりそうだ。
サザンに首ったけ
朝のルーティンは愛車である赤のボルボに乗り、大好きなサザンオールスターズを聴くドライブ通勤から始まる(下の写真)。
お気に入りの曲は「真夏の果実」や「Ya Ya(あの時代を忘れない)」。サザンにはまったのは学生時代。米国留学中は妹からCDを送ってもらい、現地で聴き続けた。過去の偉大なアーティストや歌謡曲などを勉強したうえで作曲されたと思われる独特な楽曲に、いつも新たな発見があり、ひきつけられた。
サザンの影響もあって、身近に海のある生活に憧れる。「生まれ変わったら、次は絶対に泳いだり、サーフィンしたりしたい」。撮影のために訪れた湘南の海を眺めながら、不動さんはそんな冗談を飛ばした。
大倉悠美
岡田真撮影
[NIKKEI The STYLE 2024年8月18日付]
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