「弁が立つし行動力もある。官僚ともうまく渡り合い、ある意味において上手な人だった」。1994年に水俣市長として公式の場で初めて水俣病犠牲者に謝罪をした吉井正澄氏。熊本学園大学水俣学研究センターの花田昌宣シニア客員教授はこう振り返る。
吉井元市長は自民党の地域のリーダーにして、林業を営んだ。花田氏は「『山の人』だ。チッソの企業城下町とのしがらみがあまりなく、地域の亀裂修復に取り組めた」とも。ゼミの教え子たちを市役所へ連れて行った際、学生に気さくに接し時にはキッとたしなめてくれたと述懐する。
94年5月1日の水俣病犠牲者慰霊式で、初めて公式に謝罪するにあたり入念な準備をした。ある市役所関係者は「通常は事務方が書いた文書を読むだけだが、自ら繰り返し添削をして書き直し、各方面とも調整をしてから臨んだ」と記憶する。「駅伝の選手だったからか『水俣は今ビリだけど環境をテーマに一気にひっくり返してトップになる』が口癖だった」と振り返る。そのためにも水俣病問題の解決なくして、地域の再生はないとの信念を貫いた。
水俣病が地域社会に落とした影を取り除くため知恵も絞った。代表的な取り組みが、人々の融和を図る「もやい直し」の推進。水俣病の語り部たちの活動も後押しした。
「水俣の経験を次世代に伝えていかないと」と意を新たにするのは水俣市立水俣病資料館などで語り部活動をする杉本肇さん。吉井元市長とは両親を通じて家族ぐるみの付き合いで、亡くなる1カ月ほど前に面会し励まされたと振り返る。
風化への懸念もある。今年5月、慰霊式後の患者団体との懇談の場で、環境省職員が患者側の発言を打ち切りマイクの音を切る問題も起きた。法廷闘争が続き全面解決にほど遠い現状を、改めて浮き彫りにした瞬間だった。
今年4月に熊本県知事に就任した木村敬氏は吉井元市長の訃報に際し「著書を読んで、お会いしたいと切に願いながらかなわなかった」とコメントした。吉井元市長の思いを今こそ改めて聞きたいと思う人は少なくないはずだ。
=5月31日没、92歳
(熊本支局長 近藤康介)
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