「悔しさ」から「感謝」へ。ふるさと福島県大熊町の「今」を伝える若き「語り部」の原動力だ。
「語り部」震災による災害の記憶や教訓の風化を防ぐために、当事者自らが体験したことを語り、後世へ伝えている。
<ホープツーリズムの浸透>
福島県双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館。津波や原発事故の被害を伝える約200点の資料が展示され、2023年度過去最多の9万人以上がこの場所を訪れた。
理由の一つが、震災と被災地の現状を学ぶ「ホープツーリズム」の浸透だ。その中で、多くの人が関心を寄せる場所がある。
<語り部として活動>
「そんな正しい知識を一つも持ち合わせていない私が迎えた2011年3月11日です」
「語り部」の活動を始めて3年目、福島県大熊町出身の小泉良空さんは台本を使わず、1人1人に語りかける。
神奈川県から来た男性は「語り部の方のお話を聞いて、自分のことのように想像することが出来たので、お話は聞けてとても良かったなと思ってます」と話し、埼玉県から語り部を聞くために来た夫婦は「目的が果たせたっていう感じで、なにしろ小泉さんの若さの力強さが、将来とても楽しみだと思います」と話す。
<話の軸は震災後の今>
聴く人の心を動かす40分間。小泉さんの話の軸となっているのが、震災後の「今」だ。小泉さんは「まだ実家があった場所で暮らせていないので、まだその途中にいるような感覚があるので、だからこそ今の生活も話の一部かなって、自分自身では思っているので」という。
<すぐ戻れると思っていた>
2011年3月、小泉さんが中学2年生だった頃。原発事故が発生し、地元・大熊町の大部分が帰還困難区域に指定された。
「すぐ戻ってこれると思って避難してるので、まさかこの地が人が住めない地域になっちゃうとか、そこから解除まで10年以上かかるなんていう想像は一切していなかったです」と小泉さんは話す。
<大熊町の家が実家>
「ここがうちというか、実家になりまして…」当時の自宅は取り壊され、今は更地に。それでも家族との楽しい思い出が詰まった大熊町の家が小泉さんの「実家」だ。「今の実家は、私自身いわきの実家って呼んでるんですけど、一般的にいう実家はいわきの方なんですけど、私の気持ち的には、ずっとここが実家なので」と小泉さんはいう。
<忘れ去られる悔しさ>
「本日9時をもちまして、特定復興再生拠点区域の避難指示が解除されました」
2022年6月30日、大熊町の特定復興再生拠点区域で避難指示が解除された。当時、社会人1年目として福島市で働いていた小泉さん。「ふるさとに帰れる」と希望を持ち始めた時、ふとした会話に衝撃を受けた。
「大熊がないんじゃないの?みたいな発言をされたので。何で自分が言い返せなかったんだろうというのが、自分自身に情けなさを感じたりして、帰りたいとか言ってきたけど、相当、口だけだったなというのを自覚したのがまさにその瞬間…」と小泉さんは振り返る。
ふるさとが忘れ去られる悔しさ。言葉を返せなかった自分への不甲斐なさ。あの時の自分の気持ちと向き合うように、語り部としての活動を始めた。
<10年ぶりに大熊町に帰還>
町で買い物をする小泉さん。「このシンプルな味わいがたまらなく好きです。私は」
小泉さんは2023年4月、10年ぶりに大熊町に帰ってきた。
地域とのつながりの中で今の生活を楽しむことが「語り部」として大切なことだと考えるようになった。活動を応援する多くの声に支えられながら、あの時の悔しさとは違う感情がいまの原動力になっている。
「それをきっかけに自分が知ったことを別の人に伝えてみますねとか、ありがとうという感謝をされたりとか、頑張ってねとか言葉を頂いたりとか、そういう直接の言葉が今は結構原動力になっていて…」と語る。
<今を伝える語り部>
県の内外から来た人に双葉郡を案内し、今を伝える活動にも力を入れる小泉さん。語り部として、そして大熊町に住む一人として。耳を傾ける人たちに語りかけている。
「また皆さんがこの地域に来るのを、私はこの双葉郡という場所で待っていようと思います」
知ってほしいふるさとの「今」。これからも小泉さんは大好きな大熊町を伝え続ける。
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