戦争がもたらした悲劇です。80年前、極寒の地、シベリア抑留中に亡くなった、岐阜県大野町の男性の遺骨が2024年12月、ふるさとの家族のもとへ戻りました。

■遠く離れた極寒の地「シベリア」で非業の死遂げた父の遺骨が家族に

県職員:
見つかって参りました御遺骨をお渡しいたします。

青山勝子さん:
ありがとうございます。おかえり。

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青山勝子さん:
「どこかに行ってくるのかな」ぐらいで、「いってらっしゃい」ぐらいの気持ちだったと思います。練兵場へ送っていった時に(私の)頭をこうやってして「元気にしとれよ」と言ったから、それをふっと思い出して、つらい思いをしました。

岐阜県大野町出身の青山勝子さん(84)。涙で声を詰まらせるのは、80年前の父親との最後の思い出が蘇ったからです。

青山勝子さん:
最後のお別れに、戦地にたつ時ですね。その時は妹を母親がおんぶして、私の手を引いて。

政府の遺骨収集団によって持ち帰られた、父・小川芳さんの遺骨。見つかった場所は、日本から遠く離れたロシアのザバイカル地方。いわゆるシベリアです。

埋葬されていた251柱もの遺骨の中に、DNA鑑定の結果、芳さんのものがあることがわかり2024年12月5日、家族の元へと返されました。

■80年経て帰ってきた父…84歳娘は「本当に感激」と涙

岐阜県の職員として勤務していた芳さんは、終戦直前の1944年2月に旧満州へと出征。その後、シベリアへ強制抑留されました。

終戦後、旧日本兵などおよそ57万5000人が過酷な強制労働を強いられたシベリア抑留。厳しい自然環境と劣悪な生活によって、少なくとも5万5000人が亡くなったとされています。

父親と別れた時、まだ4歳だった勝子さん。何も知らなかったあの頃、芳さんは凍り付くような異国の地で必死に生きようとしていました。

青山勝子さん:
(父と)同じ部隊の人に「次から次から亡くなっていくし、寒いところやから、もう凍っとるんや」と言われて。「亡くなったら穴を掘って、裸にしてそこに入れて、着とったものをみんなもらって、重ね着をしないとおられへんかった」って聞いたから。

勝子さんが戦死公報で芳さんの死を知ったのは、1947年の11月27日。亡くなってから2年近くも経ってからでした。

寒さに凍え続けた小川芳さん。80年ぶりに帰った我が家で、あたたかい家族の手に包まれました。

青山勝子さん:
こういう機会をみんながもってくれて、もう本当に感謝感激です。今は私も年を取って、だんだんそっちに近づくにつれて、「ご苦労さんやったね。ありがとう」と。

(東海テレビ)

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