2023年11月29日に逝去した名脚本家・山田太一氏の小説『異人たちとの夏』は、1988年に大林宣彦監督の手によって映画化された作品だ。
孤独な日々を過ごしていた主人公が、まるでタイムスリップしたかのように、死別した両親との再会を果たすさまを幻想的に描き出した同作は、多くの人に愛された。
そんな傑作小説が『荒野にて』『さざなみ』のイギリス人監督アンドリュー・ヘイの手によって再映画化。『異人たち』のタイトルで4月19日より全国公開される。
原作を担当した山田太一氏は、『男たちの旅路』『岸辺のアルバム』『ふぞろいの林檎たち』など数多くのヒットドラマを手掛けた名脚本家として名高いが、エッセイスト、小説家としても数多くの作品を手掛けている。
本作の原作小説となった『異人たちとの夏』は2003年に英訳版が刊行されており、国内外、多くの読者に親しまれてきた。そんな山田太一氏が『異人たち』へ向けた思いとはどんなものだったのだろうか。山田氏の次女・長谷川佐江子さんに話を聞いた。
両親の思い出がテーマ
――『異人たち』は両親の思い出がテーマということで、特別な思いもあるのではないでしょうか?
それが昨日までそれに気づかなくて(笑)。映画を観たときはまだ父も生きていましたし、主人公がライターの設定だったということもあり、自分と照らし合わせていなかったんです。
もちろん若くて元気だった両親にまた会いたいという気持ちはありますし、それはうっとりするような時間だろうなと思います。
父が倒れてから亡くなるまで7年たっているのですが、それをきっかけにより家族が密に連絡を取り合い、父とも十分接する時間をもらえました。
感謝を伝えることもできたので、思い残すところはないというか。もちろんああしてあげればよかった、というのはありますけれども、亡くなったときの顔が本当に穏やかだったのでよかったな、というのが兄弟3人の気持ちでした。
――次女である長谷川さんと、長男の石坂拓郎さん(『るろうに剣心』などで知られる映画キャメラマン)が山田太一さんについてお話されているインタビューを拝見したのですが、それが実に生き生きとした言葉でお話をされていて感銘を受けました。自分だったら父親のこと、父親の仕事についてあそこまでしっかりと話すことができただろうかと思ったのですが。
父の仕事場が家だったので、常に家にいたというのは大きかったと思います。よその家のことがわからなかったので、それが特殊なことだとは中学生くらいまで気づきませんでした。
父はとてもおしゃべりで、大好きな美術館や映画館の話などは、普段の会話の中にあふれていました。けれども、わたしたちを諭すことも、説教をすることもまったくなかったですね。
大学に入るときと、子どもが生まれたときに、こうしたらいいよと言われたくらいで。そのときは珍しいなと思いました。あとはドラマからですね。哲学的な話が多かったので、むしろ文章や映像から、父が考えていることを知ったという感じでした。
海外での映像化の交渉
――今回、映画化の話がイギリスから来たときに、製作会社ナンバーナインのプロデューサーさんがご家族と一緒にお食事をされたというふうにお聞きしました。出版社を通したビジネスライクな感じとはまた違った形で交渉が進められたのかなと思ったのですが。
誰も雇っていなかったため、母や家族が手伝うしかなかった、というところもあります。
その会食に参加したのは弟(石坂拓郎氏)と姉(宮本理江子氏)と父と母です。わたしは子育て真っ最中でして、実家に帰る時間もないような時期でした。
弟は高校からアメリカにいて、映画のキャメラマンでもあるので、映画のことをよくわかっているということもあり、よく母と動いてくれたんですね。
『異人たち』はイギリスの首都ロンドンが舞台。人気のないタワーマンションに住む脚本家のアダムは、ふとした拍子に幼い頃に住んでいた家に行くが、そこでは亡き両親が暮らしていた…(写真:配給提供) Ⓒ2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.ただ権利関係についてはなかなか煩雑で、スムーズにいかなくて。母がしょっちゅう怒っていました(笑)。
母は3部作(小説として発表された『飛ぶ夢をしばらく見ない』『異人たちとの夏』『遠くの声を捜して』の3作)をイギリスで出版するときは、わたしに3部作のあらすじを要約しろと言ってきたり、家族全員を巻き込んで、みんなでやりたいというのがあったみたいですね。
――お話を聞いていると、お母さまの存在が山田太一さんという作家にとってものすごく大きな存在だったのかなと思うのですが。
そうだったんでしょうね。父はよく「うるさい」って言ってましたけど(笑)。
でも母も「何でも『あらあなた、そうなの?』なんて言ってる奥さんだったら、あの人はドラマを書けなかった」「反抗する妻がいたから書けたのよ」と言ってました。
本当にその通りだったと思います。にぎやかな家族でしたね。喧嘩もよくしてましたし。おしゃべりもいっぱいしてました。やはり母の存在は大きかったんでしょうね。
もちろん母を筆頭に、子どもたちとの話もすごく作品に影響していたなと思います。ただ父は忘れちゃうんですよ。だから母が提供した話であることを忘れて、あたかも自分が考えていたかのようにエピソードを書くので。母は怒ってましたけど(笑)。
山田太一氏の次女、長谷川佐江子さん(写真:配給提供)――不勉強ながら、山田太一さんの作品が日本国内だけでなく、海外でも出版されていたというのは初めて知りました。
父の小説はファンタジー要素が強いからでしょうか。母は世界に通用すると思ったようです。
おそらく子育ても終え、両親も看取り、何か目標が欲しかったのではないかと思います。急に翻訳版の出版を目標に頑張ると言い出して。父は作品に集中したいので、あまりピンと来てなかったみたいですけど。
弟はアメリカ・ロサンゼルスを拠点にしているのですが、母は70を過ぎて弟の近くのマンションを借りて。弟と一緒にアメリカの法律家と会いに行ったりして。とにかく元気で、パワフルな母でした。
――やはりお母さまは、お父さまの作品が大好きだったのでは?
それはあったと思います。照れ臭かったのか、ストレートに褒めることはなかったですが。あそこまで頑張りたいと思えるのは好きじゃなかったらできないと思います。
海外の脚色を楽しみにしていた山田太一氏
――山田太一さんといえば、脚本を勝手に変えることをよしとしていなかったことでも知られています。ですが本作では、原作にある男女の恋愛模様ではなく、アンドリュー・ヘイ監督の大胆な脚色により、男性同士の恋愛模様として脚色されています。山田さんはむしろその脚色を楽しんでいたと聞きましたが。
そうですね。イギリスの作品なので、同じにしろというのがまず無理ですから。父もそれがどういうふうに変わるのか、楽しみだったみたいです。
――『異人たち』を観ていると、山田太一さんが考える家族への思いを感じます。
父は8人兄弟の7番目として育ち、小学4年生で母親を亡くしました。だからもしかしたら、自分が得られなかった親子の関係をわたしたち子どもに与えようという思いで頑張ってくれていたのかなと思います。
父は幼少期に家族だけで食卓を囲むことなどなかったと言っていたので、あの家族団らんの空気感は父にとっても初めてのことだったのかと、今さらながら気づき、驚いています。
――家族ですごく仲良く過ごされてたようですね。
でもうちはケンカもすごかったですよ。親子げんか、夫婦げんか、兄弟げんかとまあにぎやかで。あの小説の、夢のような温かいだけの家族ではなかったのですが、でも基本、仲がよかったんだろうなと思います。
家族で囲む夕飯のときには大笑いもしましたし、子どもながらにしあわせで温かい気持ちに包まれた日もよくありました。
けれども弟はアメリカに行き、姉もわりと早くに家を出て。わたしは28で結婚するまでは家にいましたが、やはりどんどんいなくなっちゃうのは寂しいんだなって思いましたね。
山田太一氏は生前に完成した『異人たち』を鑑賞していたとのことで、家族からの「良かったね」という言葉にうなずいていたという(写真:ご家族提供)むしろ大人になってから気がついたことのほうが多いんです。結婚してからたまに帰ると、両親がこんなにも喜んでくれるのか、とか。ちょっとセンチメンタルな気分になることはありました。
若いころは子育てだけで忙しいですから、親の感情とかについて考える暇もなかった。子煩悩だとは思っていましたが、家族を大事にしようという意識が父の中でかなり強かったのだなというのは、最近になって気づきました。
友だちが泊まりに来たときに変わってるねと言われたことがありました。家族で食事をして、みんなで洗いものを手伝うんです。父も率先して洗っていましたし。それで片付けたらみんなサーッと大抵は部屋に行っちゃうんです。友だちはそこが変わっていると感じたようです。
友人にも驚かれるほどマメだった
22時ぐらいにみんなまた居間に降りてきて一緒にニュースを見たりしました。割と自分の時間をそれぞれ過ごす感じがありましたね。まず父は部屋に行っちゃいましたね。母が父はまるで「下宿生みたいだ。食事のときだけ降りてくる」と愚痴っていました。
あと(松竹の)助監督だったせいかマメなんですよ。すごくマメに動いてました。家のゴミ出しも何でもするし、せっかち。家族で出かけても、駅の近くになると小走りで先に行っちゃって、全員の切符を持って立って。みんなに配る。改札を通るとまた回収して父が持つ。食事もいつの間にかお会計を済ませているとか。父親ってそんなもんなのかなと思っていたら、友だちからはそんなマメな人はいないと言われました(笑)。
――確かに助監督や制作部は撮影現場をスムーズに進めるために効率を求めがちだと思うので、動きに効率を求めるのは助監督や制作部経験者に多い思考だと思います。
のんびりしているように思われがちですが、無駄を省きたいというところがありました。スマホがない時代でも、効率的に。この駅ではここで降りるとすぐに階段だとかいうのを頭に入れてましたから。
わたしが子どもを連れて車で実家へ帰るときは、あと5分くらいでつくよと連絡を入れると、着いたときには車庫のシャッターを開けて、満面の笑みで迎えてくれる。
母も「子どもには気が長い」と言ってましたけど、わたしたちを寝かしつけるときにも創作の話をしてくれていました。落語の登場人物に子どもを入れたり、もうとにかく面白くてゲラゲラ笑って。もう1回って言うと、いいよって。自分が子育てをしてみて、あれはすごかったな、よく何度も話してくれたなと思います。
子どもとの時間を大切にしていた
頑張っていたのもあると思いますし、気が長いというのもあるけれども、もうこの時間は子どもにあげようっていう意識で集中して向き合ってくれて、パッと仕事に行くみたいな。だからこっちも不満が残らないんですよね。
こちらから話しかけても、ちゃんと本や新聞を閉じてこちらの話を聞いてくれる。ながらで何かをするというのがなくて。子どもとの時間を大事にしてくれてるなと思ったのを覚えてます。
――子どもだからということではなく、ひとりの人間として向き合おうとしてくれた。
そうですね。誠実であろうとしてくれたんだなと思います。自分が間違えたときはちゃんと謝ってくれました。こないだは俺が悪かったとか。それはすごく影響されています。
自分も子どもに対してはそうありたいなと思いますし。ただわたしはすごく父に甘いんです。姉と弟からだと、父はまた違ったふうに見えていたかもしれないですけどね(笑)。
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