(写真:連続テレビ小説「虎に翼」ウェブページより)

NHK新朝ドラ(連続テレビ小説)『虎に翼』が好調だ。

男尊女卑な戦前社会の空気と制度を乗り越えて、女性初の弁護士、女性初の裁判所長となった三淵嘉子を伊藤沙莉が演じるというストーリー。視聴率もおおむね16%を超えている(ビデオリサーチ、関東・世帯)。

好調な理由もよくわかる。見ていて安心できるのだ。昨年の『らんまん』もそうだった。

NHK大阪制作の前作『ブギウギ』の、破天荒でどう転がるかわからないようなズキズキワクワク感もよかったが、NHK東京制作ならではの安心感・安定感が継続視聴につながっているのだろう。東京制作と大阪制作の違い。いいバランスだと思う。

寅子を演じる伊藤沙莉の安心感

安心感の源は、何といっても、ヒロイン寅子を演じる伊藤沙莉。『らんまん』の神木隆之介同様、主役が実績十分だと、何とも落ち着く。言葉は悪いが、ぽっと出の主演俳優を見定める間の不安感がない(かつて、不安感に耐えきれず、落ちて=視聴中止してしまった朝ドラがいくつもあった)。

伊藤沙莉×朝ドラといえば『ひよっこ』(2017年)だ。米屋の米子(しかし米嫌い、パン好き)という奇妙な役柄で存在感を残したのだが、あれから7年、あちこちで見事な演技を披露(個人的には伊藤+森田望智の並びにNetflix『全裸監督』を思い出し、不思議な気分になる)、ついに朝ドラで主役をこなせるまでに至った。

演技力以前に、すでに存分に披露している縦横無尽な「顔芸」だけで満足している私がいる。動きも軽快ではつらつ。声が大きく野太いのも、後述するヘビーな内容に立ち向かう役柄に合っている。

伊藤沙莉の脇を固める明律大学の仲間も実に個性的なメンツだ。さっそうとした男装の女性・山田よねを演じる土居志央梨、華族のお嬢さま・桜川涼子を演じる桜井ユキ、弁護士の妻で母親の学生・大庭梅子=平岩紙、朝鮮半島からの留学生・崔香淑=ハ・ヨンス。

特に、土居志央梨は、最大のめっけものだろう。近年では江口のりこを、NHK『これは経費で落ちません!』(2019年)で初めて見たときの異物感(褒め言葉)を思い出した。「よく見つけてきたな」と思う。

あと、オープニング映像(タイトルバック)が秀逸だ。個人的には朝ドラ史上過去最高のように思える。楽曲は米津玄師『さよーならまたいつか!』、映像はシシヤマザキによる。

ドラマの内容と明快に沿ったものになっていて、寅子/伊藤沙莉も登場するし、ドラマのストーリーを凝縮したものになっている。つまりは抽象アートというよりはコンセプチュアルな作りなのだ。

中盤で寅子の目がアップになるところがたまらない。見据えているのは自分の、仲間の、そして女性の未来だろうか。

単なる「女性の社会進出物語」ではない

以上、このドラマの見どころを述べてきた。未見の方が読まれると、伊藤沙莉演じる寅子が、抜群の能力を発揮して、閉鎖的な法曹界の中で、ガンガンとのぼりつめていくという(ある意味、朝ドラではありがちな)ストーリーを想像されるかもしれない。

しかし、最大の見所は、当時の女性が置かれていた、そうとうにヘビーな状況をストレートに描いていることにある。つまり単なる「女性の社会進出物語」「女性活躍物語」ではなく、ヘビーでストレートな「弱者の物語」を目指しているところに、このドラマの根本価値があると思う。

そもそも当時女性は、ドラマの中で描かれたように「無能力者」(婚姻状態にある場合)とされていた。さらに、明律大学の仲間には自らを「弱者」たらしめるヘビーな背景がそれぞれあるようだ。

すでに土居志央梨演じる山田よねの凄絶な背景は第3週で提示された。その描き方は、これまでの朝ドラとは明らかに異なるものであった。

残りの仲間のヘビーな背景も、おいおい明かされていくことだろう。特に、朝鮮半島からの留学生=崔香淑が日本で学ぶようになった経緯に注目したい(第15回の「ちょっと日本語を間違えると笑われるのが嫌!」というセリフは響いた)。

また「月経」(生理)の話が何度も出てくることにも、「弱者」としての女性のありようを、あるがままに描きたいというスタッフの意志がくみ取れた。

そもそも当の伊藤沙莉が、こう述べている。

――私はこのドラマが「道を切り開く人はすごい」「職業婦人はかっこいい」という捉え方ではないところも好きなんです(『NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 虎に翼 Part1』NHK出版)

中島みゆき『ファイト!』の歌詞を想起

そして私は、『虎に翼』に、朝ドラ史上最高の「弱者の物語」を期待する。もっといえば――中島みゆき『ファイト!』のようなドラマを。

1983年に発表されたアルバム『予感』からシングルカットされ、今や『糸』(1992年)などと並ぶ彼女の代表作を思い出したのは、第14回の寅子の「戦わない女性たち、戦えない女性たちを、愚かなんて言葉でくくって終わらせちゃ駄目」というセリフが、『ファイト!』の「♪闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」という歌詞を想起させたからだ。

『ファイト!』の歌詞には、多くの「私」が出てくる。以下の4人はおそらく全員、女性だろう。

・仕事がもらえない中卒の私
・駅の階段で突き飛ばされた子供を助けもせず逃げた私
・周囲に反対されて上京できず、東京行きの切符を涙で濡らした私
・力ずくで男の思うままにされて、こんなことなら男に生まれればよかったと思っている私

しかし、そんな「弱者」としての彼女たちが、周囲に笑われながらも闘い続け、傷ついて、やせこけて、まるで鮭のように、北海道の川をのぼっていく。

――♪ファイト!  闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう ファイト! 冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ

そして何とか産卵。次の世代の小魚が、ベーリング海やアラスカ湾の方向にぐんぐん向かっていく。

――♪ああ 小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく 諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく

この生命のサイクルを、繰り返していくことによって、少しずつ「弱者」が携える権利が整っていく――。

朝からヘビーでもストレートもいい。そんな『ファイト!』のような世界を突き付ける朝ドラになってほしいと期待する。ちなみに伊藤沙莉は、こうも述べていた。

――でも考えてみれば、昔から続いていた価値観が一瞬で変わるなんて絶対なくて、多くの女性が「それはおかしい!」と声を上げて闘い続けてくれたからこそ、今の自分も「おかしい!」と気付くことができるんだと思います。それがどれだけありがたいことか(前掲書)

主題歌の歌詞に出てくる「100年先」

しかし主題歌は、中島みゆきではなく米津玄師『さよーならまたいつか!』だ(こちらもいい曲)。歌詞には「100年先」が何度も出てくる――「♪さよなら100年先でまた会いましょう」「♪100年先も憶えているかな」「♪100年先のあなたに会いたい」。

モデルの三淵嘉子が生まれたのは1914年。100年以上も前の話だ。100年以上も先の日本は、「女性活躍社会」の言葉が空虚に響き渡り、「選択的夫婦別姓」(「選択的」なのだから、さっさと導入すればいいと個人的には思っている)すらもなかなか進まない。

「弱者」としての女性を描くドラマが、100年以上先の社会で、まだまだ突出したリアリティを持つことを、果たして三淵嘉子は想像しただろうか。

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